山岡鉄舟の功績を称えた「正宗鍛刀記」の考証


Anshin(アンシン)  Anatoliy(アナトーリー)  著

二松学舎大学日本漢文学研究編集委員会編 『日本漢文学研究』、第2号、2007年3月、
305-317頁

この論文の簡略版が、日本歴史学会編 『日本歴史』、第722号(2008年7月、90-98頁)
にも掲載されている




凡例

- 本論文の史料のために引用を行った際、旧字を常用漢字に、句読点を現代表記に改め
  た。歴史的仮名遣い、捨て仮名、濁音の表記は改めていない。

- 読めなかった字は、■ のままとした。

- 敬称は一切省略した。


  本論文は、日露青年交流センターの助成による研究成果の一部である。

  尚、史料の翻刻にあたっては、早稲田大学社会科学総合学術院教授、島善高氏の御教示
  を得た。特に記して、感謝の意を表したい。



はじめに

    国立国会図書館憲政資料室が所蔵している岩倉具視関係文書には、明治政府の右大臣、岩倉具視(1825-1883)が口述し、漢学者、川田剛(1829-1896)が漢文で記した「正宗鍛刀記(まさむねたんとうき)」が収録されている。川田剛は、甕江(おうこう)と号し、明治前期の皇典講究所・國學院・東京大学に出講した高名な漢学者であった。川田剛の経歴の特色は、官歴に恵まれた、いわゆる宮廷歴史家である。その官歴は、儒臣の出身に相応しく、文部省、史局、宮内省を経て、修史事業を一貫して担ってきた。太政官歴史課御用掛、修史局一等修撰、修史館一等編修、宮内省諸陵頭、博物館理事、歴史部長、図書寮などを経て、1890年(明治23)に古事類苑検閲委員長となり、さらに1895年(明治28)に古事類苑編集総裁となった。いわゆる抹殺博士の一人、重野安繹(1827-1910)と考証学をめぐって対立したことも有名である。没する直前、特旨により宮中顧問官、勅任官一等従三位に叙せられた(1)

    「正宗鍛刀記」は、そういう経歴を持つ日本人が書いた一流の漢文であり、その内容は、維新後、徳川家の第一六代目宗家となった徳川家達(いえさと)(1863-1940)が、江戸無血開城を実現することによって、徳川家と江戸市民を抹殺から救った山岡鉄舟(1836-1888)の功績を労うために、山岡に徳川家の家宝名刀「武蔵正宗(むさしまさむね)」を贈与し、山岡はこれをほどなく岩倉具視に贈ったという事実の記述を初めとし、江戸無血開城の経緯や名刀「武蔵正宗」の描写などがある。この文書は、後で詳論するが、1883年(明治16)頃に作成されたと考えられる。

    様々な日本史の教科書、日本史事典、日本人名事典、さらに明治維新と戊辰戦争の研究の中では、江戸無血開城の時に山岡鉄舟が果たした役割について述べる際、山岡は、「江戸無血開城を実現した」、「実現への道を開いた」、「糸口を見つけた」、「下地をつくった」、単なる「勝海舟の使者」であったなど、その定義が統一されておらず、定説が見られない。さらには、例えば、東京の JR 田町駅西口の近くの壁に勝海舟と西郷隆盛の談判を画いている大きなモザイクの絵と歴史的場面の説明がかかっているが、山岡も同席した可能性があるという原口清の指摘(2)、および山岡が、自分は会談に参加したと、直筆の「慶応戊辰三月駿府大総督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記」(1882年、全生庵保存。以下「戊辰談判筆記」と略)で明確に書いている事実とは反対に、そこにはなぜか山岡の姿が見えず、彼の役割について一言も述べられていない。現在、明治神宮聖徳記念絵画館で展示されている結城素明の有名な絵、「江戸開城談判」も同様である。このような現実から、山岡鉄舟を含め、明治維新の最も重大な局面の一つであった江戸無血開城を実現した人物に対する不均衡な評価を知ることが出来、結果として徳川家のみならず、「江戸百万生霊」が救われたとされる江戸無血開城のイメージが、かなり歪められていることが分かる。

    山岡鉄舟の役割と言えば、駿府において西郷隆盛との会談の時に、東西両軍の実力者が、山岡を媒介としてはじめて接触でき、さらに、山岡の決死の弁明を通じて、徳川慶喜の恭順の実情が西郷隆盛をはじめて得心させた。このことによって、江戸城の平和的明渡しの可能性は強まったと原口清が指摘している(3)。ところが、山岡の役割が、それ以上重要なものであったということが、彼の手記と二次資料から伺える(4)

    江戸無血開城と山岡鉄舟の関係を巡る一次資料は、「戊辰談判筆記」に尽きるが、これまで全く検討されてこなかった「正宗鍛刀記」が、江戸無血開城の時に山岡が果たした役割の重要性を裏付ける二次資料の一つである。本稿は、江戸無血開城の時に山岡鉄舟が果たした役割の重要性を再認識する目的をもって、この史料についての考証をしていくことを課題とする。


一 「正宗鍛刀記」と岩倉具視関係文書

    「正宗鍛刀記」は、山岡に関する様々な文献の中で取り上げられ、また、明治末期と大正初期に中等学校の漢文教科書の教材にもなっていたと言われる(5) が、管見に入った範囲では、「正宗鍛刀記」の原本の行方と、その信憑性を検討する試みが全く見られないのである。また、徳川家達が山岡に代々徳川家の家宝であった名刀「武蔵正宗」を贈与して、山岡がこれを岩倉具視に贈った後、この名刀はどうなったかを明らかにする山岡関係文献もない。

    現在、「正宗鍛刀記」の原本なるものの行方は不明である。原本に最も近いと思われる写本が、山岡直筆の「戊辰談判筆記」の写本とともに国立国会図書館憲政資料室が所蔵している岩倉具視関係文書川崎本に収録されている(以下、「国会図書館本」と略)。岩倉具視関係文書は、主として国立国会図書館憲政資料室、岩倉公旧蹟保存会対岳文庫、国立公文書館の3ヵ所に分かれて保存されている(ほかに日本史籍協会編『岩倉具視関係文書』第二巻所収の後藤仙太郎・大武丈夫所蔵文書、その他がある)。これらの史料の大部分は、もと内閣書記官、多田好問が『岩倉公実記』(皇后宮職、1906年)編纂のために宮内省で多年蒐集したもので、岩倉家で所蔵していた原文書はわずかしか含まれていない。『岩倉公実記』の編纂は、明治政府の事業であったにもかかわらず、『岩倉公実記』の刊行後、編纂史料が官庫から流出した。その一部が神戸の川崎武之助(男爵。神戸川崎造船所社長)の所蔵に帰し、戦後、国立国会図書館憲政資料室が購入し、「川崎本」と名付けた(国立公文書館内閣文庫にも『岩倉公実記』編纂関連の史料が含まれる)(6)。国立国会図書館憲政資料室が所蔵している岩倉具視関係文書は、川崎本・西川本・岩倉家本・岩倉公旧蹟保存会対岳文庫本という、四つの大きな史料群にわかれるが、川崎本は、国立国会図書館が所蔵している岩倉具視関係文書の中心をなす史料群であり、総数314部・766冊に及ぶ文書類である。系統的に幕末明治初期の政治史料が網羅されているが、いずれも写本で、「岩倉公伝記資料」の朱印を捺す(7)。「正宗鍛刀記」の写本が綴じられている一冊にも同印が押されている。

    国立国会図書館憲政資料室の他に、「正宗鍛刀記」と「戊辰談判筆記」の写本がセットになって、宮内庁書陵部に保存され(「戊辰談判筆記」の写本名は、「山岡鉄舟周旋尽力手記」となっている)、底本は、いずれも国会図書館本であり、採集年月は、1924年(大正13)10月となっている。北海道大学附属図書館にも「正宗鍛刀記」の写本が保存され、内容は、国会図書館本と多少違うが、底本に関する記述がない。鳥取県の内務総務部長、宮崎県知事などを歴任した萩原汎愛なる人物の三女が、北海道帝国大学の三代目総長、高岡熊雄に嫁いでおり、その関係で、自分の父の蔵書、500余冊を北海道帝国大学に寄贈し、「正宗鍛刀記」の写本もその1冊であった(8)


二 「正宗鍛刀記」の歴史的事実確認

    「正宗鍛刀記」の本文中に、「後十余年(江戸無血開城後十余年・引用者注)、家達追思鉄舟功、報以此刀」という言葉があるが、徳川家達は、1877年(明治10)から1882年(明治15)までイギリスに留学し、イギリス滞在中に山岡鉄舟に名刀「武蔵正宗」を贈与することは考えられない。したがって、「後十余年」というのは、徳川家達が帰朝した後、つまり江戸無血開城から「一四年後」のことになる。名刀「武蔵正宗」が山岡鉄舟に贈与された時期を確定できる次の岩倉具視宛・香川敬三書簡が残っている(9)

        拝呈仕候、本日御書面ニて被仰聞候山岡鉄舟江御内諭一件、過刻同人方へ行向
        段々閣下御配慮之次第逐一申聞候所、感銘致候、彼之位階宣下ハ謹而御請可仕
        旨内々申出候間、御安意奉願候、就而者手間取れ候而者甚タ面白カラス候間、速
        ニ御用召被仰出候様奉願候、
        一、同人小子迄噂ニ徳川家達過日欧州より帰朝相成候所、此際麝香間祗候被仰付
        候様相願度、今日ニも参殿、鉄太郎より内願可申上トノ事ニ御坐候、家達ハ将軍家
        相続之事ニも有之、位も従三位ニ候間、旁内願之通被仰付候ハヽ、徳川家旧家臣一
        同ありがたかり候事ト推察候、尚山岡より可申上候間、御聞取可然奉願候、又同人
        云ク、徳川家ノ事ニ付而者種々御配慮被下候間、為御礼正宗之刀一振進呈仕度趣
        申居候、右ハ寸志ヲ表候まてのものニ付、御請被遣下候、是も難有トノ事申居候、右
        夫々本人より可申上候間、宜敷奉願候、
                                                                                                                    再拝敬白
                                                                                                                        敬三
        (明治一五年)十一月廿日
        右大臣公閣下

徳川家達は、イギリスへの留学を終えた後、麝香間祗候(じゃこうのましこう)(10) を命ぜられたので、この書簡に出ている山岡鉄舟の内願は成功したことが分かる。

    この書簡の内容から分かるように、山岡鉄舟は、名刀「武蔵正宗」を岩倉具視に贈呈したいということを、香川敬三を通じて岩倉具視に伝えている。徳川家達が1882年(明治15)10月19日にイギリスへの留学を終えて帰朝し、そしてこの香川敬三書簡の日付は同年11月21日なので、徳川家達が山岡鉄舟に名刀「武蔵正宗」を贈与したのは、その間、つまり1882年(明治15)の10月19日と同年11月20日の間である。

    なお、「正宗鍛刀記」の他に、上記の香川敬三書簡も山岡と名刀「武蔵正宗」の関係を伝えていることは、歴史的事実確認の意味で重要である(依田学海の日記、「学海日録」でも名刀「武蔵正宗」を巡る出来事を確認できるが、これについては後に詳述する)。

    名刀「武蔵正宗」の贈与と「正宗鍛刀記」の執筆に至った経緯について、山岡鉄舟の最も有名な伝記『山岡鉄舟先生正伝 おれの師匠』(1937年、以下『おれの師匠』と略)には、長年にわたって山岡の内弟子であった小倉鉄樹(てつじゅ)が、

        これは後年徳川家達公が、山岡の徳川家に対する功労に酬ゆるため、家伝の宝
        刀たる正宗一口を贈つたのを、山岡は「かゝる銘什を保持するのは勿体ないこと
        である。自分のしたことは君家に対する臣下としての当然の務めで、少しも感謝さ
        れるほどのものではない。これは誰か廟堂の元勲に差上げるのが至当である」と
        考へて岩倉さん(具視公)に贈呈した。 岩倉さんは山岡の心操の高潔なのに感心
        し、山岡から西郷との談判の次第を聴き取つてそれを川田剛に筆記させ、之を
        「正宗鍛刀記」と題して刀に添へ、以て宝刀入手の由来を明らかにした

と口述している(11)。小倉の意見は、おそらく「正宗鍛刀記」の後半に出ている「後十余年、家達追思鉄舟功、報以此刀、鉄舟謂此非吾功、廟謨寛仁之所致、携来示余、遂見贈焉」という言葉に基づいている。しかし、山岡鉄舟が、自分がもらった徳川家の家宝を他の人物ではなく、岩倉具視に贈った理由について、「これは誰か廟堂の元勲に差上げるのが至当である」という説明は単純すぎる。上記の香川敬三が岩倉具視に宛てた書簡から見ても明らかなように、岩倉具視が維新後、徳川家に対して色々「配慮」したことに報いるため、山岡は岩倉に徳川家の家宝を贈呈したというのが、本当の理由である。

    なお、佐倉孫三編『山岡鉄舟伝』(1893年)には、井上馨が「明治十六七年の頃」、勅使として勲三等を山岡に持参して、山岡がこれを固辞した後に、岩倉具視が山岡の功績を称えるために「正宗鍛刀記」を川田剛に書かせたと書いてあるが、間違いである。山岡鉄舟による勲三等辞退の事実は、1882年(明治15)6月27日付けの『雪の夜話り』新聞に記載された「山岡鉄舟 叙勲を拝辞す」という記事と、小倉鉄樹の目撃談で確認でき、勲三等辞退は、1882年(明治15)6月、山岡が宮内省を辞めて間もない頃の出来事であり、山岡が岩倉に名刀「武蔵正宗」を贈る半年ぐらい前の事であるので、勲三等辞退と「正宗鍛刀記」の作成は、直接関係がないのである(12)


三 「正宗鍛刀記」の作成期日と内容

    上述した通り、岩倉具視は、名刀「武蔵正宗」の入手経緯を川田剛に語り、「正宗鍛刀記」を書かせた。「正宗鍛刀記」は、漢文学の「記」というジャンルに属し、このジャンルは、本文の主題になっている物事の詳細な描写が普通で、「正宗鍛刀記」の場合は、本文の終わりにある名刀「武蔵正宗」の描写がそれに当たる。しかし、ここで問題になるのは、「正宗鍛刀記」の作成期日である。山岡鉄舟の様々な伝記に記載されている「正宗鍛刀記」の作成期日は「明治十六年紀元節」である。この「紀元節」は、『戊辰解難録』(金清堂、1884年)に収録された「正宗鍛刀記」の最初の出版バージョンにも見える。福永酔剣著『日本刀大百科事典』には、「明治十六年紀元節後之日」(13) という日付が記されているが、どの文献でこのバージョンを見ているか明記していないので、一応ここでは度外視する。一方、国会図書館本・「正宗鍛刀記」は「明治十六年紀元後三日」となっている。「紀元後三日」は、紀元節を始点にした表記で、11日を含む場合は2月13日、含まない場合は2月14日に当たるが、いずれにしても、これらの作成期日は、川田剛が「正宗鍛刀記」を完成した段階のものでないことが確かである。その理由は次の通りである。

    国会図書館本・「正宗鍛刀記」は本文の他に三島中洲・依田学海・中村敬宇による眉批と跋の批評があ
(14)。山岡鉄舟の様々な伝記に記載されている「正宗鍛刀記」には、この眉批と跋の批評が全くない。この3人は、いずれもその当時の有名な漢文学者であり、依田学海(百川)は、川田剛が、1873年(明治6)から1882年(明治15)までの期間、官撰修史事業に従事した時に、修史館で川田剛と共に第二局甲科に所属していた(15)。依田学海は、「学海日録」という日記を残し、その1883年(明治16)4月12日条に、

        きのふ川田甕江・小永井小舟を約せしかば、午後三時にして両氏きたる。まづ書室
        に行て茶をすゝむ。甕江、頃撰する所の右相岩倉公正宗刀の記を示さる。これは山
        岡鉄舟が公におくる所の物也。文中、鉄舟が王師関東に下りしとき、単身参謀西郷
        隆盛に謁して議論したる時の事を叙したり。文情飛揚、英気勃々、生の如し。右相
        の語を叙する所に忠義所感、国家治乱係焉の言あり。余いへらく、此刀つきて治乱
        かゝれる如く聞ゆ。されども、此刀は事終りてのち徳川公の鉄舟に賜はりたる所なれ
        ば、治乱かゝるとはいひがたかるべしといひしかば、甕江、即座に悟りて唯此忠臣所(○○○○○)
        ()()((ママ))以表其功(○○○○)と改めたり。その虚心感ずべし

と書いてある(傍点は原文のものである)(16)。この文脈から、1883年(明治16)4月12日時点では、「正宗鍛刀記」が、まだ作成中だったことが分かる。川田剛が「正宗鍛刀記」の作成期日を「紀元後三日」にした理由は、おそらく皇室と関係のある象徴的な日付にしたかったことにあるのであろう。

    「正宗鍛刀記」の本文中には、1868年(慶応4)3月における山岡鉄舟の駿府への道程、山岡と西郷隆盛の談判などの描写が出ているが、いずれも山岡直筆の「戊辰談判筆記」を漢文に改めた内容である。また、名刀「武蔵正宗」の詳細な描写、その由来と価格5,000貫に関する言及もあるので、川田剛は、「正宗鍛刀記」を作っていた時に徳川家の資料も使用したと思われる。

    「正宗鍛刀記」で岩倉具視は、「唯此忠臣所贈、今受以表其功」、つまり「唯だ此れ(名刀「武蔵正宗」・引用者注)忠臣(山岡鉄舟・引用者注)の贈る所、今受けて以て其功を表せんとす」と述べ、この文書を作ることによって山岡鉄舟の功績を世に知らせるつもりであったが、「正宗鍛刀記」は結局、公にされなかったのである。しかし、既に1884年(明治17)6月に金田清左衛門なる人物が、これを山岡直筆の「戊辰談判筆記」および「覚王院論議記」と一緒にまとめて、『戊辰解難録』という題名で出版し、「正宗鍛刀記」は、初めて世に出たのである。

    なお、徳川家達による名刀「武蔵正宗」の授与と「正宗鍛刀記」の作成は、1881-1883年(明治14-16)という、山岡の人生に重要な変化が生じた時期と重なっていることは、特筆すべきである。これらの変化というのは、1881年(明治14)に明治政府によって行なわれた維新勲功調査の時に、山岡が賞勲局への書類提出を拒否したこと(17)、山岡が1882年(明治15)6月に元老院議官に任命され、同月、宮内省を辞退したこと、同月、井上(かおる)が勅使として持参した勲三等を山岡が拒絶したこと(18)、同月、明治天皇の御用掛に任命されたこと、などである。山岡が、「戊辰談判筆記」および、「慶応戊辰四月東叡山ニ屯集スル彰義隊及諸隊ヲ解散セシムベキ上使トシテ赴キ覚王院ト論議ノ記」(1883年、下書きは、全生庵保存。山岡が覚王院義観(19) に彰義隊の解散を力説した顛末を述べた内容である。以下「覚王院論議記」と略)を執筆したのも、この時期である。


終りに  

     歴史学は、先ず、意思決定の立場におり、案をめぐらし、事の成り行きに大きな影響を与える人間を評価する。意思決定の立場にいる人間の指示で危険を冒し、並みならぬ勇気で行動する人間は、その次である。これまで山岡鉄舟は、後者として扱われてがちであった。しかし、「正宗鍛刀記」が示している通り、江戸無血開城における山岡の役割は、徳川家が彼に代々伝わった家宝を贈るほど、重要なものであり、それが、これまでに考えられてきたより、はるかに大きかったことが分かる。一方、たった一人の案内人を伴って、単騎で官軍を突破し、また官軍と交渉する権限を持っていなかったとされてきた(20) 山岡は、駿府において西郷隆盛と談判する際、徳川慶喜を備前に預けるという、朝命に逆らった(「戊辰談判筆記」)こと以上に、何をしたかが謎に包まれている。ただ、一つだけが明らかなことは、単なる勇気だけだったら、江戸無血開城直後、山岡が成し遂げた目ざましい出世が、不可能であったに違いない。江戸無血開城直後、山岡が成し遂げた出世を現代用語で例えるならば、佐藤寛が言う通り、山岡は、徳川幕府という「会社」の「平社員」から、いきなり「専務取締役」となったのである(21)。山岡は、江戸城が官軍に明渡された1ヵ月後、1868年(慶応4)閏4月に大目付兼帯御勘定奉行(22)、さらに同年5月に勝海舟、織田和泉守などとともに政治の幹事役となった(23)。つまり、幕府の無名な精鋭隊歩兵頭格であった山岡は、急に政治の最高のポストに就いたのである。その後、静岡県、茨城県、伊万里県(現在佐賀県)の参事・県令を歴任し、1872年(明治5)に明治天皇の侍従となり、その10年後、宮内省を辞職した際、明治天皇の御用掛(二等官扱い)に任ぜられ、没するまで明治天皇の厚い信任を受けていた(24)。また、山岡が没する前日、1888年7月18日に宮内大臣、土方久元が賞勲局総裁、柳原前光宛てに、「右鉄太郎儀ハ太政維新之際徳川氏恭順ノ事ヲ((ママ))旋シ其功不鮮 (後略)」(25) という、山岡を勲二等に昇進する願いを送り、柳原前光は、即日これを承認したのである。

     主君が手柄を立てた家来に刀を与えるという武士の習慣に違わず、1868年(慶応4)4月10日、江戸城が官軍に明渡される1日前、徳川慶喜は、無血開城の実現者の1人であった勝海舟に刀を与えた(26)。徳川家が山岡鉄舟に家宝の名刀「武蔵正宗」を授与するまで、なぜ14年も経たなければならなかったのだろうか。この疑問も含め、江戸無血開城の時に山岡鉄舟が果たした役割の謎に関する総合的検討は、別の機会に論ずる予定である(27)

    なお、国会図書館本・「正宗鍛刀記」は、これまで一般公開されたことがないので、最後にその翻刻を掲げる。


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(1) 『皇典講究所草創期の人びと』、國學院大学、1982年、184-193頁。

(2) 原口清「江戸城明渡しの一考察(二)」『名城商学』、21(3)、1972年3月号、59-61頁。これは、江戸無血
       開城を正面から取り上げた唯一の研究である。

(3) 原口清「江戸城明渡しの一考察(一)」『名城商学』、21(2)、1971年12月号、133頁。

(4) 明治時代に江戸無血開城の功労者、天皇の側近などとして有名であった山岡鉄舟は、日記、自叙伝な
       ど、彼の思想と事績を窺い知ることが出来る文書をほとんど書いていないので、その生涯と事績を知る
       には、二次資料に頼るしかない。なお、明治末期に生没年も経歴も、その人となりも、良く分からない
       安部正人なる人物が、山岡鉄舟の講話記録とされた『武士道』(光融館、1902年)、山岡直筆とされた
       『鉄舟随筆』(光融館、1903年)などを世に出した。これらの書物は、現在でも大東出版社、角川書店、
       国書刊行会から繰り返し出版されている(『鉄舟随筆』は、『鉄舟言行録』、更に『鉄舟随感録』という題
       目に変わった)。しかし、これらの「講話記録」と「随筆」の大半は山岡と無縁なものであり、安部正人に
       よる創作である。その事実が広く知られておらず、様々なバージョンで出回っている山岡鉄舟の「武士
       道論」と「随筆」は、山岡鉄舟の虚像を作り上げ、山岡鉄舟、あるいは武士道に興味を持っている多くの
       人に、既に一世紀にわたって誤解を与え続けている。安部正人が編纂した山岡鉄舟関係書物の問題
       性、また安部正人の執筆活動全体の問題性について、拙稿「山岡鉄舟の随筆と講話記録について」を
       参照(『千葉大学 日本文化論叢』、第7号、2006年6月)。

(5) 牛山栄治『山岡鉄舟の一生』、春風館、1967年、136頁。

(6) 岩倉公旧蹟保存会所蔵文書は、『岩倉公実記』編纂の資料として編者多田好問が保管していたが、そ
       の死後、それが後輩、雨森厳之進の手に帰し、この雨森が岩倉の旧臣、森田省三の紹介で京都岩倉
       村にもたらし、岩倉旧宅とともに永久保存をはかった。それから雨森が保存会の組織をはかり、その結
       成となった。それが、保存会所蔵岩倉具視関係文書の由来であるが、その後に購入したものもある
       (大久保利謙『岩倉具視』、中公新書、1998年、243頁)。なお、国史大辞典によると、岩倉公旧蹟保存
       会対岳文庫は、日本史籍協会から出ているが、史料は、日本史籍協会の方針によって取捨され、すべ
       てが含まれているわけではない。また、日本史籍協会の岩倉具視関係文書は、岩倉公旧蹟保存会文
       書(隣雲幹文書)を基本とし、これに後藤仙太郎・大武丈夫所蔵文書などを加えたもので、重要文書は
       よく網羅してあるが、漏れたものも少なくない。

(7) 『岩倉具視関係文書〈岩倉公旧蹟保存会対岳文庫所蔵〔III〕〉』、北泉社、1994年、13頁、20-21頁、
       24-25頁。『岩倉具視関係文書〈国立国会図書館憲政資料室所蔵〔I〕〉』、北泉社、1997年、3頁。前掲
       『岩倉具視』、243-244頁。

(8) 北海道大学附属図書館の担当者の調べ。

(9) 写本。岩倉公旧蹟保存会対岳文庫所蔵。ここで北泉社によってマイクロフィルム化されている岩倉公
       旧蹟保存会対岳文庫を使った。岩倉公旧蹟保存会対岳文庫のマイクロフィルムの目録に、この書簡
       は、1882年(明治15)のものであるとなっているので、書簡が出された年代表記は、目録に従って記
       し、括弧で囲んだ。『岩倉具視関係文書〈岩倉公旧蹟保存会対岳文庫所蔵〔II〕〉』、北泉社、1993年、
       350頁、〔27〕番。

(10) 麝香間祗候は、帝国憲法下の旧制で、華族や親任官および明治維新に勲功のあった者に与えられた
         栄誉の称で、親任官待遇が授けられた。元々、麝香間祗候は、京都御所内の一室で、将軍入朝の際
         は、ここに祗候するのを例とした部屋であった。

(11) 前掲『おれの師匠』、151頁。実際には、岩倉具視が、小倉鉄樹が言うように、「山岡から西郷との談判
         の次第を 聴き取つ」たかどうかは、不明である。

(12) 佐倉孫三『山岡鉄舟伝』、普及舎、1893年、66-70頁。前掲『おれの師匠』、228-237頁。

(13) 福永酔剣『日本刀大百科事典』、第5巻、雄山閣、1993年、151-152頁。

(14) 北海道大学附属図書館に保存されている「正宗鍛刀記」の写本の跋文には、桜井鴎村による批評も含
         まれている。

(15) 前掲『皇典講究所草創期の人びと』、186頁。

(16) 『学海日録』、第5巻、岩波書店、1992年、258-259頁。依田学海の日記に見える「今更以表其功」の
         「更」は、国会図書館本・「正宗鍛刀記」で「受」となっているが、それは、依田学海の日記を編集した
         学海日録研究会による誤植か、あるいは日記にはそうなっていたか、不明である。

(17) 1881年(明治14)、宮内省に勲功調査局が新設され、維新の功労者に勲賞を与えることになった。この
         時に、該当する人々に勲功履歴を提出させたが、山岡鉄舟と高橋泥舟だけが提出しなかった(思想の
         科学研究会編『共同研究 明治維新』、徳間書店、1967年、378頁)。

(18) 山岡鉄舟が宮内省を辞した1882年(明治15)に井上馨が勅使として勲三等を持参して、山岡がこれを
         拒絶したシーンを山岡の内弟子、小倉鉄樹が目撃し、後に口述している(前掲『おれの師匠』、228-
         235頁)。また、山岡鉄舟による勲三等辞退の事実は、1882年(明治15)6月27日付けの『雪の夜話り』
         新聞に記載された「山岡鉄太郎 叙勲を拝辞す」という記事でも確認できる。

(19) 覚王院義観(1823-1869) ― 江戸上野の天台宗東叡山真如院住職、輪王寺宮の執当。1868年(慶応
         4)能久親王とともに新政府軍に徳川家の救済を嘆願したが、失敗して、主戦論に転ずる。上野戦争に
         敗れ、会津、仙台へと逃れたが、捕らえられ、1869年(明治2)2月26日、東京の獄中で病死した。

(20) 松浦玲『勝海舟』、中央公論社、1968年、170-171頁。

(21) 佐藤寛『山岡鉄舟 幕末・維新の仕事人』、光文社、2002年、159頁。

(22) 『公私雑報』、慶応4年、閏4月、7日。「山岡鉄太郎等の任免」。

(23) 『江湖新聞』、慶応4年、5月22日。「勝、山岡等幹事役となる」。

(24) 山岡の人格の特徴から言えば、彼は、自分から立身出世を追い求めた訳ではなく、明治政府と徳川家
         の要請に応じて、高い官職に就いたのである。

(25) 国立公文書館所蔵。山岡鉄舟に授けられた勲二等と関連辞令は、現在、全生庵に保存されている。

(26) 勝部真長・松本三之介・大口勇次郎編『勝海舟全集』、第19巻〔海舟日記II〕、勁草書房、1973年、43-
         44頁。

(27) 牛山栄治は、『おれの師匠』の改訂版、『山岡鉄舟の一生』(1967年)の中で、名刀「武蔵正宗」につい
         て、「こ の刀は二尺四寸五分、相州の刀工藤原正宗、代五千貫ときざまれている」と書いている(前掲
         『山岡鉄舟の一生』、 (159頁)が、実際には、この刀は、名物でありながら無銘で、「伝正宗」とされて
         いるので、牛山栄治が書いて いることは間違いである(広井雄一編、本間順治監修『日本刀重要美術
         品全集』、第2巻、ミュージアム出版、1985年、132頁)。名刀「武蔵正宗」は、初め徳川二代将軍秀忠
         が、紀伊大納言、徳川頼宣に贈った もので、その後、頼宣の孫・綱教が、5代将軍綱吉の長女・鶴姫と
         結婚した際、1685年(貞享2)3月6日、綱教の父・光貞が将軍に献上し、以後、将軍家のお譲り道具
         となった。折紙は、紀州家時代は金150枚だったが、将軍家に入ってから、5,000貫に値上がりしてい
         る。「武蔵正宗」という異名の由来については、剣客・宮本武蔵所持説のほか、本阿弥光澄説では、紀
         州家の家臣所持だったのを、武蔵国江戸で召し上げられたのに因み、「武蔵正宗」という、となってい
         る。徳川家達からこの 名刀を授かった山岡鉄舟がこれを岩倉具視に贈った後、しばらく岩倉家の所蔵
         になっていたが、1914年(大正3)岩倉家の売立に出た。しかし、1,190円の札しか入らなかったので、
         競売を見合わせ、後で親族が3,500円で引き取った。1937年(昭和12)8月28日付で、重要美術品に
         認定された時も、名義は「東京・岩倉具栄」(当時、公爵)となっていた。戦後、岩倉家を出て、藤沢乙安
         の所蔵に帰し、後に東京代々木にある日本美術刀剣保存協会の管理文化財となり、現在、日本美術
         刀剣保存協会附属・刀剣博物館に保存されている(前掲『日本刀重要美術品全集』、132頁。前掲『日
         本刀大百科事典』、151-152頁。福永酔剣「江戸開城の功で拝領。鉄舟の武蔵正宗」、月刊『剣道日
         本』、1993年7月、210号、104-105頁。福永酔剣『皇室・将軍家・大名家刀剣目録』、雄山閣、1997年、
         60頁。なお、福永酔剣著『日本刀大百科事典』と『皇室・将軍家・大名家刀剣目録』には、名刀「武蔵正
         宗」を山岡鉄舟に贈与したのは、徳川慶喜であると書いてあるが、これはミスプリントあるいは間違い
         である。「徳川家達」と正しく書いてあるのは、月間『剣道日本』記載の同著者による記事である)。



 
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